ベートーベンとモーツァルトの唱歌
〔World Reader 『ティータイム』より掲載〕
西洋文化と音楽
日本は明治の近代化以降、西洋の文化・文明に本格的にふれ、
その圧倒的な影響を受けるようになっていきましたが、
音楽もそうした分野の一つでした。 文明開化の嵐が
吹き、「洋楽に非ざれば、音楽に非ず」と言う時代に
なったのです。
学制が導入され、唱歌と呼ばれた音楽の授業も、学校の正課で
教えられるようになりました。 音楽は、家元や趣味で身につけるとか、
才能在る人々のみがレッスンを受けると言うのではなく、誰しもが
学ぶ教育の一分野になったのです。 明治の近代化の大きな特長の
一つでしょう。
そして、専門家の養成のため、東京音楽学校が明治20年(1887)に
官立で設立され、日本の音楽教育の中心となり、戦後の改革を経て、
今日の東京芸術大学へと継続発展しております。
かくして、広範な小学音楽教育や官民に渡る専門家の教育が広まり、
成果を上げるにつれ、この国にも音楽人口と呼べるだけの文化の
集積が形成されて参りました。 もとより、ジャンルは多様ですが、
西洋音楽の核心を為すのはクラシックであり、とりわけ、日本では、
何故か、ベートーベンとモーツァルトが人気を博するようになりました。
ベートーベン
この古典派から浪漫派に至る巨匠は、1770年、ドイツのボンに
生まれ、多くは同じドイツ語圏のオーストリアのウィーンで活躍
しました。 フランス革命から、ナポレオンの欧州征服の戦乱で
荒れた時代でしたが、様々な労苦を重ねつつ、生涯多くの曲を作りました。
交響曲は九編在り、特に最後の第九交響曲は、日本で圧倒的な人気が
あります。
これも戦後日本に特有の現象ではありますが、この第九の演奏回数は、
我が国が圧倒的に多く、特に年末は驚異的な数に上り、年の暮れの季語
とまでなっております。 この曲が作られたオーストリアや、ベートーベンの
母国ドイツでは、オーケストラの演目としてみて、何年かに一度という頻度
でしか演奏されません。
日本ではベートーベンを演奏すれば客が入り、特に、第九は合唱団が加わり、
それもアマチュアが熱心に練習するとともに、入場者を勧誘しますから、
どこも大入りが普通という風になっています。
ベートーベンの人柄と作品
でも、このベートーベンの曲について、「一所懸命作ったから聞いて
欲しい」という感じがして、好きになれないと言う人が結構居ます。
こうした人々には、モーツァルト愛好家が多いようです。 その分けは、
素人の私には良く分かりませんが、文献などを紐解くと、ベートーベンの
人柄や才能の現れ方によるような感じがあります。 ベートーベンは、
気むずかしく、激越な性格であったと言われ、恋愛はしたものの、所帯を
持つことは出来ませんでした。 「とても一緒に住めない」と言うわけです。
私が学んだ大学の刑法の先生は、講義の中で「犯罪と人格」を論じるに
当たり、「ベートーベンは、音楽の才能がなければ大泥棒になったろうと
言われております」と語りました。 一種の社会的不適応であったと言う
わけです。 次第に難聴となり、遂に晩年には聾者となったことも、やはり
禍したのでしょう。 しかし、その名声は高く、1827年の葬儀には、
二万人が参列したと言われますから、人生を終焉したとき、モーツァルトと
好対照をなしています。
ベートーベンの音楽の堅さは、多くの人に実感されるところですが、取手
第九合唱団の一人として、時折、第九を歌う立場で味わい、交響曲第六番の
田園や「エリーゼのために」等の流れるような音楽を聴きますと、、
この大作曲家の持つ違う面が出ているような感じがしてなりません。
その人間性や豊かな才能の多面性があるように思いますが、如何でしょう。
ウィーンで見聞した引越物語
ベートーベンは何かとエピソードの多い人物ですが、その一つに引越の多さが
あります。 生涯五十数回に及んだと言いますから、幼少期を除くと
年に一回より多く、住まいを変えていたことになります。 昨年5月、
取手第九合唱団のドイツ演奏旅行の帰途、ウィーンに旅した折り、その分けの
一端を知ることが出来ました。 近所との折りあいの悪さもあったようですが、
一つは、権利金に当たるものを家主に払わなかったからとのことでした。
それさえ払えば、親、子、孫と家を借りる権利が得られたのに、貧乏で
あったためなのかどうか、そうしなかったようです。
何せ、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットだけでも、ベートーベンの家と
いうのが何軒もありましたからね。 その内の一軒で、彼は難聴を苦に将来を
悲観して、遺書を書きました。 その家は、今は小さな博物館のようになって
います。
モーツァルト
これに対し、モーツァルトは、べートーベンの先輩で、大きな影響を与えて
います。1756年に、オーストリアの西端、ザルツブルクに生まれ、主に、
音楽の都ウィーンで活躍しました。 古典派最後の巨匠で、バッハやヘンデル等と
同じく、「かつら」をかぶっています。 これは、貴族に仕える音楽師の象徴で、
時代が少し後のペートーベンは、独立傾向が強まり、そうはしませんでした。
モーツァルトは、まさに天才で、幼少の頃から、その豊かな音楽的才能が
発揮されました。 どんどん、曲想が浮かび、次から次へと作品を
作ることが出来たようです。 あまりに多くの作品を書き、本人がきちんと
整理するいとまがなかったからか、通常は附される作品番号がなく、後代、その
作業をドイツのケッヘルと言う人が行いました。 かくして、モーツァルトの
曲は、ケッヘル何番と呼ばれます。
自然に、頭の中でメロディが浮かび、音楽が聞こえて来たといわれるモー
ツァルトは、意識して作ったと言うより、天賦の才で、音楽自らが出来て
いったような感があり、多くの愛好家を生んでいます。 気楽に、流れに乗る
ような感じで曲が聴けるという分けです。 近年、癒しの効果があると
言われるようになりました。音楽療法という考え方も、モーツァルトの曲の
活用から始まったような気がします。
この辺りが、後年に生まれ、約二十年程同時期を生きていた、努力の作曲家
ベートーベンと好対照なのでしょう。
今年2006年は、モーツァルト生誕二百五十年で、日本でも盛んにいろんな
行事が企画され、盛り上がっていますから、一段と人気が高まっているよう
ですね。 今や、ベートーベンを凌ぐという人も出て参りました。
モーツァルトの人柄と音楽
ところで、モーツァルトは、饒舌で楽しい人物のようでした。 失恋すれど、
その妹と結婚し、ともに、浪費家であったと言われます。 特にモーツァルト
には、衝動買いの傾向があり、貧乏ではないのに、家計は楽ではなかったと
言います。
モーツァルトは良く猥雑な話をしたようです。 多くの著名人がモーツァルトと
知り合いになりましたが、その音楽的高名さと優れた作品を生む豊かな才能に対
し、目の前に現れる本人の「人となり」の落差に、みんな悩んだと申します。
「人は見かけによらぬもの」と申しますが、モーツァルトは、その典型であった
ようですね。 それでも、この落差の大きさは尋常ではなかったようで、中には、
この種のことで悩まされるのを「モーツァルト問題」と呼ぶ人もいるようです。
モーツァルトの短命
モーツァルトは1791年に、僅か35歳の短い生涯を閉じました。 絶筆と
なったレクイエムは、残された一部の仕上げが弟子のジェスマイヤーに託され、
完成しますが、聴いても歌ってもそこに流れる重く深い悲しさにうたれます。
その絶命は病死と言われますが、中には、暗殺説もあります。 モーツァルトは、
実は中世に端を発する秘密結社「フリーメーソン」のメンバーで、その秘密の
儀式を、ある歌劇の中で再現してしまったので、結社に命を狙われるに至った
と言うのです。 真偽の程は分かりませんが、この天才の終焉は寂しく、後年の
ベートーベンのような大葬列が出来ることもなく、普通の人と同じように
共同墓地に埋葬されました。
日本音楽の世界的な成果:唱歌
さて、これらの大作曲家の作品とは異なりますが、近代化に邁進した明治日本は
音楽作品の面でも、大きな成果を上げるようになりました。 当初は、欧米の
曲の移入と歌詞の翻訳で始まりましたが、やがて、時代の制度や精神は、豊かな
才を持つ人々を教育や独習を通して登場させ、優れた歌曲が作られるように
なりました。 その典型・結晶と言うべきものが唱歌です。その多くは明治の末
期から大正初期にかけて作られており、日本の義務教育の普及率が漸く百%に
達した頃と軌を一にしています。
唱歌は、本来は戦後に言う音楽のことですが、今日では、日本で作られ、主に
小学校で教えられた文部省唱歌の意味で使われ、単に唱歌とも言われるように
なっています。
唱歌の特長は何でしょう?
唱歌は、明治日本より前からある、この国伝統の民謡や音頭とは明らかに違い、
むしろ、和風というより、西洋音楽の感じが強い洋風のものです。 明治の音楽
教育の基本は、前言したように「洋楽に非ざれば、音楽に非ず」とされたことか
らすれば、当然のことでしょう。
そして、唱歌は日本人なら誰もが知っている音楽になりました。 これは、
義務教育となった小学校で、児童の誰にでも唱歌を教え、その義務教育が
普及していったことが背景にあります。 やがて、子供を通して、親、兄弟、
となり近所が知るようになりました。 しかも、これが全国で起きたのです。
唱歌は、地域性のある民謡などと異なり、日本全体で知られるようになり、
この国が始めて生んだ国民歌謡となったのです。
こうした現象は、明治という近代化の時代を体現した日本で生じました。
東洋の中では、明治期を有した日本での事象だったのです。
音楽的に優れている唱歌:ドイツならリート
この日本の唱歌を聴いたドイツの有名な声楽家「エルンスト・ヘフリガー」は、
その美しさと音楽的な良さに感動し、ドイツのリートに当たるものと絶賛、
歌詞のドイツ語訳を頼み、歌っています。 それを聴くと、確かに、ドイツ語で
歌われていることもあり、リートのように聞こえます。
しかし、やはり、どこか違うのです。 西洋音楽と異なる、日本の風土、伝統、
文化が息づく何かがあるのです。 まして、原語の日本語で歌えば、そのことは
はっきりします。 民謡ではないが、日本の何かが漂う唱歌という所でしょうか。
東洋から西洋への橋渡し
あるとき、こうした唱歌等の日本歌曲を歌っている中国人の声楽家に、その
感想や印象を聞いたことがあります。 その人の答えは、「こうした曲は、
東洋と西洋の橋渡しのような感じがします。 そういう風に心に響きます。」
というものでした。
明治日本の音楽家や詩人は、近代化の渦中にありながら、西洋と東洋の和、
溶け合った姿を生み出したようですね。
別の中国人歌手は、唱歌を始めとする日本歌曲を日本語で歌い、かつ、中国語に
も訳して母国に紹介していますが、初めて、その美しいメロディを耳にしたとき、
「鬼畜のように教えられた日本」のイメージが一変したと語っていました。
日本が、近代化の過程で年月をかけつつも作り出していった音楽文化は、やはり、
優れたものがあり、外国との文化校流や相互理解に資するものと言えるようです。
唱歌の優れた作品群
唱歌の多くは、文部省唱歌と言われ、残念ながら、誰が作詞し、誰が作曲したか
分からなくなっています。 そういう約束で、専門家が参加・協力したとも
聞きました。
でも、中には、その後の研究や資料の発掘で、判明するケースが出て参りました。
その中で、最も多いのは、高野辰之作詞、岡野貞一作曲と言われる一連の唱歌で
す。 このお二方のコンビの作品を私どもの知る中で記しますと、兎追いしで
始まる「故郷」、菜の花畠で始まる「朧月夜」、秋の夕日で始まる「紅葉」、
春の小川で始まる「春の小川」などがあります。 歌っても聴いても、
じーんと来るものがありますが、これらを歌詞の詩としての形式でみても、
いろいろ創意と工夫があって、興味が持たれます。
七五調だけでない詩
分説しますと、故郷は、「うさぎ追いし かのやま」と六四調になっています。
次の朧月夜は、「なのはなばたけに 入り日うすれ」と八六調です。
かと思えば、紅葉は、「あきの夕日に 照るやまもみじ」と七七調で起こされ、
最後は、「やまのふもとの すそ模様」と七五調で結ばれており、全体として
七五調で出来ています。
その一方、春の小川は「はるの小川は さらさら行くよ」と全編七七調で貫かれ
ています。
国文学者であり、東京音楽学校の教授でもあった高野辰之の面目躍如たるものが
ありますね。
それにしても、日本の歌詞は、短歌・俳句・川柳・都々逸の典型例が在る如く、
七五調が多いのですが、唱歌がいろんな詩の形式を用いていることは、注目され
て良いでしょう。
最後になりますが、戦後六十年を過ぎた今日、その時代を生きる私どもも、
長く歌い継がれ、演奏され、鑑賞される音楽文化の意義と脈々とした流れに
思いを致し、その中で日本が生み出した優れた唱歌などの音楽文化を
あらためて良く理解し、現代の世界的なスケールでの文化交流や国際理解に
役立てて行くべきと思います。 また、それを母体として、あらたな
音楽文化の融合や創造を期待したいものです。
(2006/5 原稿作成)
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仲津真治:
http://cocoroisan.com/users/nakatsum/
昭和19年(1944)大阪に生まれる。 昭和44年京大法学部卒業後、建設省に入省、同省等に勤務、その間ハーバード大学に2年留学、修士。
茨城県課長、東京工大講師、埼玉大学客員教授、大阪府総括参事、建設省・国土庁・北海道開発庁で下水道、防災分野、総務などの課長を経験、平成8年国土庁審議官で退職。現在(株)ゼンリンの常務取締役。
「ハイブリッド国家日本の創造」(ヴォーゲル ハーバード大学教授との共著)(平成9年 ぎょうせい)、
「四季おりおり」(七五調雑詠集)(平成13年 講談社)、
随想集「土曜の夜更けに」(共著 平成14年 千代田フォーラム記念出版委員会)、
川柳集「相合傘」第二号(共著 平成14年 JDC)、
2001年 詩の旅」(CD付き)(平成14年 講談社)